ed.karasawa.gif 唐沢俊一の裏の目コラム
『星新一追悼』
 

 昨年末から今年にかけて、やたら有名人が死ぬ。伊丹十三に始まり、星新一、三船敏郎、景山民夫、石ノ森章太郎。
 「有名人が死んだという記事は新聞に出るが、有名人が生まれたという記事は出ない。このままでは有名人がいなくなってしまう」
 というジョークを飛ばしたのは星新一だったけれど。

 その星新一は、十年前からもう小説の執筆をやめていた。千篇のショート・ショートを一生の間に書く、と言っていたのが案外早くその千篇に達してしまい、それで“もうやめた”と執筆をやめ、また『進化した猿たち』でおなじみのひとコママンガのコレクションも“もう飽きた”といってやめてしまう。それを聞いたとき、星新一らしい淡白さだ、と思って笑ったものだが、その頃からもう、執着ということに体が耐え切れなくなっていたのではなかったか。それから聞くうわさが、どれも「眠り病にかかったらしい」「ずっと寝たきりで、頭がはっきりするのは一日数時間のものらしい」「ちょっと驚くくらい老けた」「起居もままならぬ容態らしい」などというものばかりで、聞いていて痛々しい限りだった。古い星ファンの志水一夫氏から亡くなった知らせを聞いたとき、むしろ、これで救われたか、という感じがしたくらいだった。

 星新一のエッセイの中で、腎臓結石の痛みに襲われ、あまりの苦痛に死を覚悟したとき、その際の意識がはっきりしていて、恐怖よりも「臨終に際して、なにか気のきいた文句のひとつも口にしなければ体面にかかわる」
 と考え、恐怖よりもそういうことを思う自分に
「本当の死の時も、こんな調子でありたいものだ」
 と願う文章があった(『気まぐれ星のメモ』所載『モルヒネ』)。
 実際には恐怖も意識も共にない、もちろん、気のきいた文句もないままの自覚なき死だったろう。『人間臨終図鑑』を書いた山田風太郎の言葉じゃないが、人間、思ったようには死ねない。

 中学一年のとき読んだ星氏の『妄想銀行』から、僕の“もの書きになりたい”という夢が始まったのだった。僕はさっそくこの本を学校に持っていき、友人知人中にショート・ショートを疫病のように蔓延させた。そして友人と語らって同人誌をガリ版刷りで作り、もちろんそこに自作のショート・ショートを山ほど載せた。同じ経験を持つ者が何百、何千人いることか。小松左京も筒井康隆も偉大である。だが、星新一に比べればやはり、読者を選ぶのである。比べものにならないくらい、星新一は、若い読者にSF(と、いうより創作の魅力)というものを認識させた、功労者と言える。

 ただ、この人の不幸は、みんながそこからハマるが故に、“星新一は卒業するもの”というイメージを持たれてしまったことだろう。作品があまりに明解すぎる、ということもそれに拍車をかけている。僕と同人誌を作っていた男は、大学に入って創作研究会に所属したが、そこのあまりの程度の低さをある日、僕に電話で訴えてきた。
 「そこの連中、大学生になって、まだ星新一を読んでいるんだ」
 僕も不遜にも、星新一を卒業して、難解な文学を齧るようになったたき、はじめて大人になったような気がしたものだ。
 彼の作品が実際は、一見明解な作品の底に、すさまじいまでの人間不信が隠されている、苦い大人の小説なのだとわかるまでに、二十年くらいの空白期間があった。たぶん、星新一を日本の文壇が正当に評価するには、没後同じくらいの年月がかかるだろう。星新一があまりに早く創作から手を引いたのも、そういう文壇事情に対する、諦めがあったからではあるまいか。しかも、東京っ子の星新一には、いまさら実験文学などという名で“文学者”という名声を得ようともがくような、筒井康隆のような真似はできなかったに違いない(これに関して、昭和五十年の段階で星新一の小説を、人間性とか人類の進歩などといった思想とはまったく無縁の“虚無の作風”と指摘した百目鬼恭三郎〜筒井康隆がクソミソにけなしている評論家〜は、やはり鋭い)。

 星氏の人間不信、というより平和とか愛とかいったタテマエ不信について、もっともそれを端的に表しているのが、別冊新評『星新一の世界』(新評社)に採録された、昭和三十三年、円盤研究会の会誌に寄稿された『円盤を警戒せよ』だろう。ここで、星氏は、円盤は愛と平和の使いであり、地球人に友好を求めているのだ、という、当時全盛だったアダムスキー派の友好論に、真っ向から冷や水をあびせている。これはよほどタテマエのきれいごとを嫌う性格でないと書けない文章であろう。この冒頭の部分を引用して結びとしたい。僕にとって、これはちょいと単語を入れ換えれば、去年大ムーブメントになった某アニメファンたちを揶揄するような文章になってしまうのが笑えるのであるが、ここでそういうことをやっては追悼文の厳粛さが薄れるの で(笑)自粛することにしよう。



 円盤の実在については疑う余地がない。しかし、それが平和の神であることについては大いに疑問を持つ。たしかに攻撃されるより平和をもたらしてくれた方がいいにきまっている。だがあって欲しいということと、あるということとは全く別だ。世の中にはこの区別がつかなくなる場合が多い。理性が麻痺した時だ。恋愛などが好例だ。愛して欲しいとの思いが、いつの間にか愛されていることになってしまい、あとで、話がちがう、ひどいやつだ、とゴタゴタする。円盤平和説も同様。
 社会が複雑になって圧迫が多く、戦争の危機が迫ったと叫ぷ連中もでてくる。しかし個人の力ではどうにもならぬ。ここで力と善意とを兼ね備えた理想的人物が現れて欲しいと思う。だがそんな奴はいそうにない。ああつまらない、と思った時。UFOが飛ぷ。腹の空いたときは何を見ても食物に見え、元気な満足されない青年は何を見てもSEXを連想するものだ。UFOが人間は−−日本人はかな−−なんて人がいいんだろうと感心していることだろう。



 われわれは偉大な理性の人を亡くした。謹んでご冥福をお祈りしたい。



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